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白骨の御文章とは

  • 2024年10月26日
  • 読了時間: 3分

ツナグ葬祭 老眼納棺師 くみさんです。


ちょっとバタバタしていまして、(すぐ言い訳する)ブログ久々更新です。


久々の割には、ヘビーなタイトルですかね??




私たちツナグ葬祭がお世話させていただくお式は、無宗派の方や、仏式、キリスト系のご宗派など、いろんなご信仰にできる限りよりそってご対応をさせていただいます。


どの宗派もそれぞれのお考えがあって、お話を聞いているとどれも素晴らしい教えやなぁとお勉強させていただいている次第でございます。



そんな中、今回は、浄土真宗の御文の5帖目第16通「白骨」(白骨の御文章)というものを取り上げてみました。



お式の中で、この章を聞く度に、先のことや過去のことにとらわれずに、まずは今日を精いっぱいやってみよう!と思えるのです。



さて、白骨の御文章とはどのようなものなのでしょうか?


原文は、下記リンクよりご確認いただけますが、現代訳をお借りしてきました。



「さて、水辺に浮かぶ根なし草のように頼りになるものの何もない、

私たち人間の姿をよくよく見つめてみると、

色々考えて合わせてみても、この世の始めから終わりまで、

夢幻のように儚い一生である。


だからいまだ千年万年生きている人を聞いたことがない。

一生はあっという間に過ぎ去ってしまう。


今日まで誰が100年200年も生きたという人がいただろうか。


死と聞くと、みんな他人のことだと思って自分のことと思っていませんが、

死ぬのは他人事ではありませんよ、私が先ですよ。


それは今日かも知れない、明日かも知れない。


後から死ぬ人、先立って死ぬ人は、雨の日に木の幹を流れ落ちる雫や、

枝の葉よりしたたり落ちる露よりも激しく人は死んで行く。


だから、朝、元気に「いってきまーす」と出ていったのに、

夕方には変わり果てた姿になって帰ってくる人の身なのである。


一度無常の風に吹かれたならば、2つのまなこはすぐに閉じてしまい、

最後の一息は永久に途絶えて、微動だにもしなくなってしまう。


血色のよかった顔色も失われてすっかり白くなってしまい、

父母や妻子が遺体に取りすがって


「なんで死んじゃったのー、もう一度目をあけてー、お話ししてー」


といくら泣き叫んでも、もう二度と返らない。

永遠の別れとなってしまう。


いつまでもそのままにしておけないので、野辺送りにして火葬にすれば、

夜中に立ち上る一条の煙となり、ただ白骨だけが残される。



あれだけ必死にかき集めたお金も財産も何一つ持って行くことはできない。

これでは一体何の為の人生であったのか。


人はこれを哀れというが、むしろおかしなことではないか。


人生を最後まで見通すとこういうことになるのである。


私たち人間のはかない命は、いつ死ぬか分からないのだから、

これに関係がない人はありませんよ。


あなたも早くこの100%直面する後生の一大事を心にかけて、

阿弥陀仏の本願に救われ、その喜びからお礼の念仏を称えずにおれない身になりなさい」




最後の信心の部分は、それぞれが皆様の思うものに置き換えていただいてよいかと思うのですが、


命というものについて、とても真理をついているように感じています。



大切な命が白骨となって自分のもとに帰ってきたときの虚無感のようなものをこの御文書を読んで、共感できる気持ちになりました。



ちょっと辛い思いになってしまった方にはすみません。


でも、大切なことが詰まっているように感じたのでブログに書いてみました。



では、また^^


白骨の御文章とは

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