『座って逝く』から『寝て逝く』へ―縄文から現代へ日本の納棺スタイル

前回のブログを書いた後、唯一ではないかと思っているブログ読者でいてくれる大切な友人からLINEが。

『両親が奄美地方出身で、40年くらい前までは、土葬で、お墓参りの時にはお墓の前にゴザ敷いて、お重広げてみんなで食べる習慣があるんよ』
『その頃は、日本中のお墓参りがそのスタイルやと思ってた~』

とのこと!
各地方によって、お墓のスタイルも色々ある中、私も個人的に沖縄のお墓素敵(不謹慎に思われたらすみません。)と思っていたので、生の声を聞けてめちゃくちゃうれしかったです✨

さてさて、先日の天理参考館で見た子宮の形の甕棺からの延長戦ブログを書かせてください!!

こびん部長

今日もながいブログやで~

日本の埋葬の歴史をたどる、その前に、世界ではどうやったの?が気になったので、まずは、世界の文明と日本の歴史の流れを、かわいくイラスト化してもらいました。(Geminiちゃんありがとう)

文明の流れ

それでは、世界の文明の歴史の流れで、それぞれの時代の埋葬法をご案内していきます。

エジプト時代
ミイラでもおなじみの、貴族は伸展葬(足を延ばして埋葬)ですが、一般庶民は屈葬という形をとることが多かったようです。王族や貴族はお金も時間もかけ、ミイラにするのですが、一般の方々も、死生観は「死後も体を残す!」という考えだったため、砂漠で自然にミイラにする。という埋葬方法を選ばれていたようです。
この頃も、やはり木棺は高価なもので、何も入れずに埋める以外の方法としては、かごを作ったり、土器のツボにおさめたりすることもあったそうな。

メソポタミア文明
手足を少し折り曲げて、横を向いて寝かせる姿勢(側臥屈葬・そくがくっそう)が多く見られたとのこと。「布団の中で横を向いて眠っているような姿」だったようです。
埋葬方法よりも、埋葬場所が変わっていて、墓地を作らず、自分たちが暮らしている家(土間)の床下に穴を掘って家族を埋葬していたとのこと。
亡くなったあとも、家族と一緒に同じ家で過ごし、床の上から毎日食べ物や水を捧げて死者を供養することで、死者を遠ざけず、生活のすぐそばに置く。という文化だったようです。

マヤ文明
中米のマヤ文明では、時代や地域、そして「身分」によって姿勢がガラリと変わるのが特徴です。主に2つのパターンが有名です。

一般の人々:「うつ伏せ」で足を伸ばす(俯臥伸展葬・ふがしんてんそう)
 マヤでは、一般の人は家の床下などに「うつ伏せ」で埋められることが多くあったそうです。
 これは世界的に見ても少し珍しい特徴のようです。

貴族や王:「座った姿勢」(座葬・ざそう)
 神殿のピラミッドや特別な墓に葬られる身分の高い人は、体育座りのように「ちょこんと座った姿勢」で埋葬されることがあったとのこと。
 中には、死後も王としての権威を保つためか、豪華な衣装を着せて椅子に座ったような状態で埋葬された例も見つかっているようです。

ローマ帝国
ローマ帝国は、現代の私たちにも一番馴染みがある「仰向けに手足をまっすぐ伸ばして寝かせる姿勢(仰臥伸展葬/ぎょうがしんてんそう)」が基本でした。

死生観: ローマ人(およびギリシャ人)の面白い特徴は、「死者の口の中にコイン(硬貨)を1枚入れる」という風習です。これは、あの世へ行く途中にある「三途の川(アケロン川)」の渡し守に払う船賃(通行料)だと信じられていたためです。
特徴: 体が冷たくなる前に全身をきれいに伸ばし、お湯で洗ってからお気に入りの衣装や白い布(トガ)で包んで棺に納めました。


ローマ時代には、三途の川の渡し賃のようなものができていて、湯灌という感じの風習もあったのですね~。

日本の縄文時代から見ていきますよ~♪ 私のあこがれ。縄文時代✨

天理参考館の展示品の甕棺は弥生時代の物でしたが、日本では縄文時代にはもう、デフォルトで膝を曲げた状態の埋葬がされていたとのこと。

古代の人たちは、胎児のような姿勢で葬ることに対して、以下のような理由を持っていたと考えられています。

1.「再生・輪廻転生」への祈り(子宮回帰説)
お腹の中の赤ちゃん(胎児)と全く同じ姿勢をとる葬り方。
古代の人々にとって、命が生まれてくる「子宮」と、亡くなった人が還る「大地」は同じもの(母神思想/ぼしんしそう)という考え方です。
「亡くなったら、もう一度お母さんのお腹の中に戻り、新しい命として生まれ変わってきてね」という、再生への祈りが込められていたという説。

2.死霊への「恐れ」と「封じ込め」
古代の人々は、亡くなった人の魂が「ゾンビ」のように戻ってきて、生者に災いをもたらすことを非常に恐れていました。
そのため、「死者を簡単に起き上がれないようにする」、あるいは「縄で縛って動けないように固定した」結果、あの姿勢になったという説。
実際、屈葬の骨の胸の上に、大きな重石(おもし)が置かれた状態で見つかるケースも多々あるとのこと。

3.単純な「コスト削減」(穴を掘る労力を減らすため)
現代のようにシャベルや重機がない時代、日本の硬い土壌や、あるいは世界の岩だらけの土地に「人が仰向けでまっすぐ寝られる大穴」を掘るのは、気が遠くなるほどの重労働でした。
そのため、体を極限まで丸めてもらえば、掘る穴のサイズは半分以下で済むため、合理的・現実的な理由から定着したという側面もあるとのこと。

なるほど・・・どれも納得の理由。

ではでは、日本では、古墳時代ごろから、寝かせた状態(伸展葬)での埋葬が増えたようなのですが、あくまでもそれは、貴族階級のお話。

一般庶民はどのように埋葬されていたのでしょうか?

庶民のリアルな埋葬スタイルの変遷を時代ごとにたどってみます!
*あくまでも日本の一般的なスタイルのまとめであって、各地方によっては、全く違うスタイルがあることも多いので、ご了承ください。

奈良の唐古・鍵遺跡は弥生時代。この時代の棺も発掘されているそうです。
奈良の唐古・鍵遺跡は弥生時代。この時代の棺も発掘されているそうです。

⏳ 日本の庶民のお棺・埋葬の歴史

  • 旧石器・縄文時代(お棺のない、究極の土葬)
    一般庶民という区別すらまだない、みんなが狩りをして暮らしていた時代です。
    お棺(容器)という概念自体がまだほとんどありません。
    亡くなると、地面に掘った小さな穴に、お身体をギュッと丸めて(屈葬)直接そのまま埋めていました。
    「容器におさめない」ということは、それだけ早く土に還るということ。大自然のサイクルにそのままお身体を返す、ある意味で一番シンプルで力強い埋葬でした。
  • 弥生時代(「土器」をお棺にし始めた大転換期):
    天理参考館で見た、「甕棺(かめかん)」の時代です!
    人間が「土器」を作る技術を手に入れたことで、日本の歴史上はじめて「亡くなったお身体を、何かの容器(お棺)に守られて埋葬する」という文化が生まれました。
    ただし、これを作れたのは九州などの一部の地域や、村のちょっと偉い人たち。
    一般的な庶民は、まだ縄文時代と同じように、穴を掘ってそのまま丸めて埋める(土壙墓:どこうぼ)のが主流でした。
  • 古墳時代〜奈良時代(格差の誕生と、風葬への逆戻り):
    この時代、王様や貴族は巨大な古墳を作り、その中に「まっすぐ寝かせる木のお棺(木棺)」や「石のお棺(石棺)」を入れてもらうようになります。
    一方で、一般庶民はというと……このあたりから、ちゃんとお墓に埋めてもらえない人が増えていきます。 なぜなら、お米作り(稲作)が本格化して「土地」が個人のもの(あるいは国のもの)になり、そこら中に勝手に穴を掘って人を埋めることが難しくなったからです。結果として、村外れの誰も使わない山奥や川原に、お身体をそのまま置いて帰る「風葬(放ったらかしにする遺棄葬)」が庶民の間で一気に広がっていきました。
  • 平安〜鎌倉時代(最も過酷な時代):
    この時代になっても、一般庶民は、お棺どころか穴を掘って埋めることすら稀でした。
    有名な場所としては京都の「鳥辺野(とりべ野)」という場所がありますが、そういった風葬地と呼ばれる場所に「遺体をそのまま置いてくる(遺棄葬)」のが普通だったようです。
    日本国内のそれぞれの村外れの山や川原、崖の下などに風葬地があることが多かったようで、当然、お身体は自然と丸まったり倒れたりしていました。
    ただ、これらは、単に置いてくるというよりは「大自然の力でやさしく自然に還すのだ」という考え方が根底にあったようです。
  • 鎌倉〜室町時代(お葬式が庶民へ広がり始めた「準備期」):
    平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、それまで貴族のものだった仏教が、法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)らによって一気に一般庶民へと広がっていきました(鎌倉新仏教)。
    室町時代になると、村のコミュニティ(お葬式をみんなで手伝う組織)ができ始め、お坊さんを呼んでお経をあげてもらうお葬式の形が、少しずつ庶民の間にも根付き始めます。ただ、まだこの頃はお棺を買える人は少なく、風葬や、簡単な穴掘り土葬が混ざり合っていた過渡期でした。

    💡 納棺師の豆知識 :「講」や「結」のつながり
    この「村のコミュニティ」は、歴史的には「講(こう)」や「結(ゆい)」と呼ばれる、同じ信仰を持つ農民たちの集まりでした。
    現代のように葬儀社がない時代、この『講』のメンバーが交代で、お身体を清めて棺に納めたり、深い墓穴を掘ったりと、お葬式をすべて無償で手伝い合っていたのです。
  • 江戸時代(「お葬式」の義務化と、丸いお棺の定着):
    江戸時代になると、幕府の政策(寺請制度=すべての人がどこかのお寺の檀家にならなければいけないルール)によって、「身分に関係なく、全員がちゃんとお寺でお葬式をして埋葬しなさい」という法律ができました。ここでようやく、一般庶民も100%「お棺」を使って土葬される時代がやってきます。
    しかし、寝かせるタイプのお棺は木材をたくさん使い、大工仕事も複雑で高価だったため、庶民には手が届きません。そこで使われたのが、味噌樽や醤油樽と同じ技術で安く大量に作れる、丸くて深い木桶「早桶(はやおけ)」でした。この桶に納めるために、お身体をギュッと丸めて(座らせて)納める「坐棺(ざかん)」のスタイルが、庶民の定番として一気に定着しました。これが、昭和まで続く「坐棺」の正体です。

    💡 納棺師の豆知識:仏教徒以外(神道やキリスト教)の人はどうしてた?
    徳川幕府が定めた寺請(てらうけ)制度の目的は、キリスト教を日本から完全に根絶すること(宗門改め)でした。そのため、「日本人は全員、例外なくどこかの仏教寺院の檀家にならなければならない」という絶対的な強制ルールでした。
    神道の神主さんであっても生きている間は形式上お寺に登録せざるを得ませんでした。ただし、お葬式だけは仏式(お経)ではなく、神道式(神葬祭)で行うことを特別に許されるケースが江戸中期以降に少しずつ増えましたが、それでもお寺への発言力は弱く、お寺の監視下に置かれていました。
    また、違法とされたキリスト教(潜伏キリシタン)の人々は、表面上は熱心な仏教徒のフリをしてお寺に所属し、お葬式でお坊さんが帰られたあとに身内だけでひっそりとキリスト教の祈りを捧げるなどして、涙ぐましい工夫で信仰を守り続けていたそうです。


    💡 納棺師の豆知識 :近代の火葬場の前身「野辺焼き(野焼き)」
    江戸時代から大正初期にかけて、日本全国の地方では「野辺焼き(三昧焼き)」と呼ばれる、青空の下での火葬が行われていました。現代のような四角い火葬炉ではなく、村外れの平地に薪を高く積み上げ、その上に棺を置いて、村の専門の係(隠亡・おんぼう、と呼ばれた人々など)や「講」の仲間が、一晩中交代で薪をくべながらお身体を火に還すという風習です。
    明治以降、近代化を進める国の方針や、地域の衛生意識の高まりによって、煙や臭いの出ない「屋内の近代的な火葬炉」へと徐々に切り替わっていきましたが、実は昭和の時代にも執り行われている地域はまだ残っていたようです。
  • 大正〜昭和初期(「火葬」の爆発的普及と、寝かせるお棺への大転換):
    大正から昭和初期にかけて、日本全国に近代的な「火葬炉」が整備され始めます。
    しかし、火葬炉の構造上、座った姿勢のままだと均一に火が通らず、綺麗にお骨にすることができませんでした。
    「一番効率よく、短時間で綺麗に焼けるのは、横に寝かせた状態」だったため、火葬の普及とと完全に比例して、お棺は丸い桶から、今のような横に長い「寝棺(ねかん)/伸展葬(しんてんそう)」へと一気に形を変えていきました。
  • 平成~令和にかけての現代(すべての人が「尊厳」を持って眠れる時代へ):
    そして現代。日本の火葬率は99%を超え、世界一の火葬大国となりました。
    かつての古代のように「身分によって埋葬方法が違う」という格差はなくなり、今ではすべての人が、まるで安らかに眠っているかのような「美しいまっすぐなお姿」でお棺に横たわり、お別れができる時代になりました。
    さらにこの平成・令和の時代は、ただお身体を納めるだけでなく、故人様の生前のお姿やお人柄を大切にし、プロの手(納棺師)によって優しく美しくお身体を整えて差し上げる技術が大きく発展した時代でもあります。(エンバーミング、湯灌、古式湯灌など)
    硬直が始まる前にお身体を無理に曲げて樽に押し込んでいた時代から、ご遺族の心の痛みに寄り添い、最期の尊厳を守る時代へ。お棺の形の変化は、私たちが死者へ向ける「優しさと尊厳」の歴史そのものなのです。

💡 坐棺から「寝かせる(伸展葬)」になった決定的な理由

歴史を振り返ると、やはり大正から昭和初期にかけて、日本の「火葬率」が爆発的に上がったことで、お棺は一気に「寝かせるタイプ(寝棺)」へシフトしたことがわかります。

これには、火葬技術の進化と、衛生面での切実な理由がありました。

理由①:火葬炉の構造と、熱効率の都合から

明治〜大正時代、それまでの「薪を積み上げて野外で燃やす火葬(露天火葬)」から、レンガ造りの「火葬炉」へと近代化が進みました。
*地域によっては昭和中頃まで露天火葬(野辺焼)は行われていました。

この火葬炉の構造上、炎は「横に寝かせた状態」が一番効率よく、全体に均一に当たります。

もし座った姿勢のまま炉に入れると、頭や肩ばかりに火が集中し、お腹や腰回りに火が通りにくく、不完全燃焼(すべてが燃えないこと)を起こしやすくなってしまうのです。
美しい状態で、綺麗にお骨にして差し上げるために「横に寝かせる」必要がありました。

理由②:衛生上の理由や都市化に伴う技術の進化

明治から大正時代にかけて、日本は何度も「コレラ」や「ペスト」「赤痢(せきり)」といった恐ろしい伝染病のパンデミックに見舞われました。
そのため、医学的・歴史的に見て「死体からの二次感染の防止」が、国が火葬を推奨した最大の理由と言われています。
当時は、コレラなどで亡くなった遺体をそのまま土に埋めると、「死体から染み出した病原菌が地下水に混ざり、その井戸水を飲んだ周辺の住民に爆発的に感染が広がる」という恐怖の連鎖が起きていたのです。また、ネズミや犬が土を掘り返して病原菌を媒介するリスクもありました。
そのため、明治30年(1897年)に制定された「伝染病予防法」という法律によって、「コレラ、ペスト、痘瘡などで亡くなった遺体は、24時間以内に『火葬』しなければならない(土葬は原則禁止)」と法的に義務付けられました。
それまではかたくなに「先祖代々、絶対土葬派!」だった地域の人々も、伝染病で亡くなった家族だけは強制的に火葬せざるを得なくなり、これをきっかけに日本全国で「火葬=衛生的で安全」という認識が定着し、お棺も「寝棺」へと変わっていったそうです。大正から昭和初期にかけて、伝染病(コレラやチフスなど)の流行を防ぐため、政府は衛生上の理由から「土葬」を禁止し、「火葬」を猛烈に推し進めました。

都市部を中心に埋葬する場所がなくなっていくことに伴い、火葬場が次々と作られ、地方にも広がっていく中で、「火葬するなら寝棺じゃないとダメ」という物理的な理由から、坐棺は急速に姿を消していったのです。

🕯 現代の納棺師へ繋がるバトン

昭和初期までは、亡くなるとご近所さん(結=ゆい、などの地域コミュニティ)が集まって、硬直が始まる前にお身体を「よいしょ、よいしょ」と曲げて座らせ、早桶に納めていました。

それが火葬の普及によって「まっすぐ寝かせる」ようになり、お身体を傷つけずに、美しく、まるで眠っているかのように整える「プロの納棺師」というお仕事が、歴史の中でどうしても必要不可欠になっていったのです。
*実際は死後硬直後も体を動かす技術を納棺師は身につけていますので、硬直してしまった!と慌てる必要はありませんのでご安心してお任せくださいね。

技術や衛生の都合とはいえ、結果として現代の「まるで安らかに眠っているようなお姿」で送り出せるようになったのは、人間らしい尊厳を守る意味でも、優しい進化だったのかもしれません。

では、日本では土葬は完全になくなっているのかというとそうではありません。

🗺 現在でも日本で土葬ができる・残っている主な地域

日本の土葬は

◆条例で禁止されていない、
◆土葬を受け入れている墓地(寺院や地域の共同墓地)がある

という2つの条件が揃った場所でのみ可能です。

1. 奈良県・三重県の山間部(大和高原や十津川、伊賀方面など)

近畿地方、特に奈良県の山間部(東部の大和高原地域や南部の吉野・十津川方面など)や三重県の伊賀地方などは、「日本で最後まで土葬の習慣が残っていた地域」と言われています。
平成に入ってからも、地域にある「野墓(のばか・村の共同墓地)」で、土葬でお見送りされていた事例が数多く記録されています。

現在では地域の高齢化や、管理するお寺・お墓の規約変更、火葬場の整備によって急速に火葬へ移行していますが、条例の縛りがなく、地域の人々の合意があれば物理的に可能な場所はまだ残されています。

2. 茨城県・栃木県などの一部地域

関東でも、茨城県や栃木県の一部の古い共同墓地や寺院の境内墓地では、今でも土葬の引き受けを行っている場所が存在します。
ただし、こちらも「その地域に昔から住んでいる檀家さんに限る」といった厳しい条件があることがほとんどです。

3. 山梨県や山形県などの山間部

山に囲まれた集落などでも、古くからの慣習として土葬が認められているエリアがひっそりと残っています。

4. 北海道(※少し特殊なケース)

北海道の一部の自治体(霊園)では、「イスラム教徒(ムスリム)」の方々のための土葬専門区画が用意されています。イスラム教では教義上、火葬が絶対にNG(最後の審判の時に肉体が必要なため)とされているため、日本で暮らす外国籍の方々の宗教的尊厳を守るために、国や自治体が特例として土葬エリアを整備・維持しているケースです。

🚫 なぜ「ほとんどの場所」でできないの?

「じゃあ、私も土葬がいいな」と思っても、一般の人が新しく土葬を選ぶのは現代では極めて困難です。理由は2つあります。

  • 都市部は条例で完全禁止: 東京23区や大阪市、名古屋市などの大都市圏やその周辺では、衛生面やスペースの都合上、条例で「土葬をしてはならない」とはっきり明記されています。
  • 民間・公営霊園の規約: 条例で禁止されていなくても、現代のほとんどの霊園や新しいお寺の規約には「火葬した遺骨に限る」と書かれているため、お墓のルールとして断られてしまいます。

🕯 納棺師の視点から:土葬から火葬へのバトン

奈良の地で古くから葬送に携わってこられた諸先輩方の時代には、まだ「両墓制(りょうぼせい:遺体を埋めるお墓と、お参りをするお墓を分ける文化)」や、土葬の現場をリアルに経験された方がいらっしゃったというお話をお聞きすることもあります。

昔の土葬は、ご近所さんたちが力を合わせて大穴を掘り、みんなでお身体を運んで土に還すという、文字通り「地域の絆」で行うお葬りでした。

今はそれが火葬になり、プロの葬儀屋さんや納棺師さんが優しくサポートする形に変わりましたが、「残された人たちの手で、心を込めてあの世へ送り出す」という根っこの温かさは、土葬の時代からずっと地続きで現代に流れているのだと感じます。

私も過去に、土葬ではないのですが、野辺送りと言って、地域のある場所で、野辺焼をして、お骨にした経験談を聞いたこともあります。
その方はまだ子供だった時に、お菓子をあげるからと言われて野辺送りの火の番を引き受けたそうですが、焼けていく様を子供心に見ていて、かなりのトラウマになったと言っておられました。

こちらも、土葬の話ではありませんが、十数年前に湯灌で伺った土地にて、墓標をその地域の人たちの手で少しずつ削って作り上げる風習があるという場面に出会わせていただいたことがあり、せっかくのご縁だからとカンナを入れさせていただいたという貴重な経験をさせていただきました。

時代と共に、火葬という文化に変化しても、土地に残る風習や故人を思う心は今も大切に受け継がれていることに感銘を受けた記憶があります。

長くなりましたが、天理参考館での展示から、私なりにつないだ埋葬方法についてのお話でした。

誰かの何かの参考になるとは思えない内容ではありますが、私自身、色々調べているうちに、なるほどーと思うことも多く、勉強になりました。


今日もながーーーい文章。最後までお読みいただきありがとうございました。

唐古鍵遺跡

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

奈良の小さなお葬儀屋さん「ツナグ葬祭」の老眼納棺師 つなぐです。
生まれ育った奈良で、これまで約17年間、たくさんのお見送りに立ち会わせていただきました。

動物が大好きで、小学生の頃から、犬と暮らしていましたが8年前に最後のわんこを見送った後、現在は6匹の保護猫と過ごしています。

両親を見送ったあとに感じた「後悔」や「虚しさ」が、わたしの原点です。
だからこそ、いま誰かを見送ろうとしている方の“後悔”を、ひとつでも減らせたらという思いで、日々寄り添わせていただいています。

その人らしいお見送りを、心をこめてお手伝いさせていただきます。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次